ふと思えば、修行のような釣りは自己研磨に通ずるものがあり、
その研磨は、万事に通ずるが如く感じる時がある。
ふと万事に通ずると気付いた自己の中の確信は、
新たな未経験の厳しさにより打破され、自信が羞恥へと変化する。
その羞恥の後に、人は新たに、万事に通ず、斬新な手法を生み出すのだ。
この精神の反転は面白く、おそらく浮き世を去るまでの輪廻である。
「釣輪廻」の途中、考え抜いた手法を実行し、狙った獲物を仕留めた時こそ、
唯一、他人へ自慢すべきタイミングである。
このとき手法や獲物が凡庸・偶然では、大きく意味をなさない。
己が出したアドレナリンの量が、
成果を知った他人のアドレナリンの量に比例するからだ。
いかにロマンチックドラマチックか。
輪廻と精神の抑揚を例えれば、時間軸に従ってテンションがsinカーブのように上下していく。
無輪廻の人間の精神は、横軸の直線である。
上下のピークは、自己中心的な志の高さ。
ふと訪れた自慢タイムの後は、グラフを新たに、ピークを上げるのが研磨だ。
sinカーブに乗った釣り人間は、ただ一方向へ流れていくことよりきっと、
多少辛くても数倍楽しいのだ。