楽響



2015

物理学の話から。
暇潰しにヒッグス粒子に関する雑誌を読んで、驚いたこと。
ヒッグス粒子は、陽子と陽子がぶつかって現れるものだそうだが、
観測される時間はなんと、10のマイナス21乗の中だけ。
1の前に0を21回くっつけた時間だそうだ。
0,0000000000000000000001の間だけ。
唖然。

そのような話を読んで、我が昨年の12/30の経験を思い返す。
巨大魚カンツリ、朝7時から夕方4時迄。
結果0匹。アタリなし。
この釣行を数字化すると、どこをどうスライスしても、0である。
ヒッグス粒子的な、奇跡的な、数字の1は見当たらない。
スイスのジュネーブの地下に、山手線のような巨大な施設を建てて、
数千人が関わる巨大プロジェクト。
奇跡的な短時間に観測されたヒッグス粒子。
いくら可能性が極小でも、結果は0ではない。

むむ。
釣りとは物理学以上に難しいものである。
釣果を求めて訪れるも、あらゆる下準備のもとに訪れるも、あらゆる経験を糧に訪れるも、
かくゆうインド人が発見した0という結果が待ち受けるのである。

かつて二桁を釣り上げた栄光をもつこの我輩が、
天候の気まぐれからくる生物のビへイビャーには全く歯が立たないのである。
物理学的なものにたいし、対生物的なものは、間に自然環境の変化が入るため、
日によって違い、時刻によって違い、こちらの意欲によってさえも異なる。

唯一の救いは、
個人の趣味である以上、結果がどうであれ、個人で完結出来ること。

この0と1の始末を見る限り、
釣りが仕事だったら、物理学を趣味にし、自分を慰めるだろう。

新年明けましておめでとうございます。
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# by rakkyouh | 2015-01-07 23:44

年の瀬に2

世の優れた事例をみてみる。
スポーツ選手、職人、画家、作家、起業人、文人、音楽家、
大方単純な意志を貫いたものがそれに当てはまる。

魚釣りは個人の鍛錬の結果である。
単純な意志の試行錯誤の結果である。

人と人とが関わった瞬間、
これらはまずくなる。

例えば、
我の釣りが他人の手法によってねじ曲げられ、
新しいと言われた手法を試すことを余儀なくされ、
結果たいしたこともないのに、
それがいいものだと言わされているようなものである。

多くのことが、
このような例えの方程式にのるのではないか?

唯一の打破。
それは優れた人物の采配であろう。

あまりにも宝くじ的な。

南無。
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# by rakkyouh | 2014-12-26 22:57

年の瀬に

脳みそ的にコダワリを求める傾向の人間は
時間の許す限りその答えを求め、
見いだしたなら、早速に飽き、
新たな壁を見い出し、新たに答えを求める。

この螺旋において、
過去の道半ばにおいて、本など読めば、
先人の知恵に共感し、そこから今置かれた実情を把握し、
なるほどこういうことかと気付いた経験があるはずである。
しかし、
その先を見いだすには、一体何が必要であるのか?

絶望を見いだしたならば、自害也。
過去の物書きなどに多くみられる例である。

精進を見いだしたならば、邁進也。
スポーツ選手、職人の方々などに多く見られる例である。

どうやらどちらもその先には孤独が待ち受けている。
死。あるいは共感なき世界観、肉体の衰退。

ただし、共感なくとも、賞賛はある。
死を選んだものは、よほどの強固な意志であったと言って間違いない。
賞賛は凡人の偉人への共感であるから、一時の喜びなれど、頼りない。

凡人の賞賛を受けるのが苦手かつ、生存した者は、
間違いなくコダワリの者である。
精進を目指す性質の持主である。

そして、
共感なき世界感を生き、ハスメに無味無臭の賞賛の対応をし、
己の真髄を探求すことがあるとする。

さて、現代においてそれが
ビジネスにからまらず、その探求を求め続けた結果とは、
いかようなるものなのか。

我その結果を欲す。
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# by rakkyouh | 2014-12-26 22:44

interplay

この時期はカンツリである。
オススメは平日の悪天候。ガラガラだから。
場所を変えながら、色々なトライが出来る。
様々な過去の経験として
湖の釣り、渓の釣り、本流の釣り、ありとあらゆる鱒をかけたシーンの思い出が、
脳みそのなかでピンと音をたてて、
ただの池のなかのほんの一部に、
ダイナミックな滝壺や、底の見えぬ淵、大岩の陰などを連想させる。
こうして妄想を広げることで、四角い池の中でも、
湖の釣り、渓の釣り、本流の釣り、ありとあらゆる妄想練習が可能になる。
そして、そこで新しい発見があれば、応用として、
次の解禁後の新たなトライとして準備することが出来る。

ここでわかるのは、
物事を一元的に捉えて知ったと満足することは
理解するという意味には程遠いということである。
カンツリで釣れることは1元的である。
真の目的である鱒の理解とは、どんな環境においても対応出来ること。
理解とは、
1好奇心が湧く対象の発見、それへの挑戦
2上手くいかない苦痛にもがく
3悩んだ末、ある時ふと、そうだったのかと気付く瞬間が訪れる
この順序を通ることが必須である。

ビギナーズラックとはまさに、2、3の欠如であり、
簡単にゴールにたまたまたどり着くことであり、
自慢は出来るが、体得がされていないので、意気揚々と次の機会を迎えると、
即、2の状態に陥ってしまうことである。

理解の道程に関して
生きるうえで、このステップを踏む機会が多ければ多い程いいかというと、
簡単なことほど数多くこなせることは目に見えているので、
数が多い程大した深みがなさそうである。
自分で選んだ数個の事柄にたいし、深く、嗜むことで、
数個の結果から、数個の答えを導きだす。
更に、
一つの答えについて、別の事柄で気付いた答えと比較したときに、
何だか同じような要素を含んでいるようだなと気付くと、
ああこれは間違いないなという、
理解という言葉の、更に一歩、上にある、悟りのようなものを得ることが出来る。
算数でいえば二つの方程式があることで解を導き出せるようなものである。
一つのことに打ち込むスポーツ選手よりも、二つくらい打ち込める方が、
Xの値についての真理に近づけそうだ。

いずれにせよ、お気に入りのカンツリに通い、
釣れない悩みをかかえるところから始めよう。
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# by rakkyouh | 2014-11-28 00:08

釣り師としての悟り

1.幼き頃は
 多様性を受け入れ、学ぶ。なんでもよい。
2.思春期の頃は
 己の身体的特徴や生まれもった性格、あるいは環境などから、
 好みの取捨選択を行う。固執が生まれ始める。
3.それから数年経つ頃は
 自分の軸が固執にて凝固する。意見の合わないものは愚者だと考える。
4.それから数年経つ頃は
 あらゆる事象に、固執と客観性のギャップを感じ始める。
 上手くいかない何故かを問う。哲学する。何かに答えを求める。
5.それから数年経つ頃は
 答えを求め続けた経験により、己の固執項目以外のものに触れ、
 万物の共通項を見いだし始める。
 固執は溶解し、共通項は客観性として理解可能になる。
6.それから数年経つ頃は
 客観性のなかに、物事に共通した真理を見いだすことが出来るようになる。
 真理に沿い、説得力のある主観表現が可能となる。
7.それから数年経つ頃は
 うまくいく
8.それから数年経つ頃は
 おそらく、説教がましいおじさんだと言われ始める。
 進退は社会的しがらみに大きく左右される。
9.それから数年経つ頃は
 成功していれば、人生の回顧録のようなものが出版される。
 (4.あるいは5.までの人々に読まれる。6.以降の人はそのモチーフに既に飽きている。)
 
あれ、んー。



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# by rakkyouh | 2014-10-31 23:52


気品溢れる鱒族を求めて。自己満足型随筆集
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