楽響



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釣り師としての悟り

1.幼き頃は
 多様性を受け入れ、学ぶ。なんでもよい。
2.思春期の頃は
 己の身体的特徴や生まれもった性格、あるいは環境などから、
 好みの取捨選択を行う。固執が生まれ始める。
3.それから数年経つ頃は
 自分の軸が固執にて凝固する。意見の合わないものは愚者だと考える。
4.それから数年経つ頃は
 あらゆる事象に、固執と客観性のギャップを感じ始める。
 上手くいかない何故かを問う。哲学する。何かに答えを求める。
5.それから数年経つ頃は
 答えを求め続けた経験により、己の固執項目以外のものに触れ、
 万物の共通項を見いだし始める。
 固執は溶解し、共通項は客観性として理解可能になる。
6.それから数年経つ頃は
 客観性のなかに、物事に共通した真理を見いだすことが出来るようになる。
 真理に沿い、説得力のある主観表現が可能となる。
7.それから数年経つ頃は
 うまくいく
8.それから数年経つ頃は
 おそらく、説教がましいおじさんだと言われ始める。
 進退は社会的しがらみに大きく左右される。
9.それから数年経つ頃は
 成功していれば、人生の回顧録のようなものが出版される。
 (4.あるいは5.までの人々に読まれる。6.以降の人はそのモチーフに既に飽きている。)
 
あれ、んー。



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by rakkyouh | 2014-10-31 23:52

味わい

年波にゆられ、
ぷかりぷかりと表層を浮かぶか、あるいは、
深く潜ろうと歯を食いしばり必死に足搔くかは己次第。

ふと見た、我が愛好時代劇小説のテレビドラマに感じたことを書き残す。

池波文学の我が心象への響き振りは、その味わいにある。
ふとした所作、台詞の一旦、そこに、人生の機微があり、
面白いのは、
長きに渡り何パターンものテレビ化がされているが、
制作者の意図に寄る配役や、取り上げている文中の一端へのこだわりが垣間みられ、
観る側にも違いがわかり、
また、
我々の年波の時点によっても、
心に響く部分がより変化し、深まり、ああ、こういうことだな、と
面白さが増して行く。

一方で、鱒釣りや仕事を通して気付くこの世の一旦に関し、
孤高的に、より我が脳みそにダイレクトに響くものもある。
数学者岡潔、哲学者デカルト、
彼らは、
彼らが生涯を通じて考察したことからの、
人間的な原因をわかりやすく探求/咀嚼した結果を、
我々に詳細に伝えてくれる。
これらは情緒であり、情念(パッション)であり、個の、総括的なものである。
それらが人間の個としての特徴の究明、省察であれば、
池波文学は個でなく、様々な人間たちが織りなす螺旋の成せるドラマ、省察であり、
まったく異なるものである。

ストイックな釣り人が辿り着く思考の収束部に対し、
個を観ず、あくまで人間の集合を考えた場合に起こりうる現象、
これらを、江戸という、今や誰も見たこともない世界を、まるで見たか、知っているかのように、
現実味溢れるタッチで描いたものが池波文学である。

我々は釣り人として、突き詰めるべきストイックな趣味性と、
社会に生きるものとして、そこに人々があるからこそ起こるべく味わいを、
優れた人物の作品群を通し、経験と照らし合わせ、楽しむことが出来る。

まさにこれは、経験による共感であるから、
池波文学とは、フィクションというテクニックを用いながら
人間のもつ味わいを上手く描いた、社会の哲学であるといえる。
孤高、社会、その螺旋
人生いと味わい深し。


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by rakkyouh | 2014-10-01 21:27 | トラウト


気品溢れる鱒族を求めて。自己満足型随筆集
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