楽響



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鱒族と我々の共通性

およそ長いこと釣りをしている人間は
数ある川や湖を経験し
どこかにきっとお気に入りの聖地のようなものを発見する。
その聖地は釣りをしていないときですら、ふと脳裏に蘇り、
ああ、
今あの場所はどれくらいの陽が差し
どれくらいの風が吹いているのだろうなどとふと想う。
こうして、個々人の聖地はより聖地となる。
そこにいなくとも、思い出すだけで意識はその場の虜となり
それによってますますかの地は神々しく輝きを増すのである。
どこか神の信仰と似ているところがあるが
宗教的観点からみた場合、
釣りとそれとの圧倒的な違いは
我々の聖地には神でなく
鱒がいることだ。
そしてその聖地は個々人によって点在的である。
ここで鱒族を神と崇めるのはしっくりこない。
例えば宗教的神をもつ人は、神を想う。
では釣りに想いを馳せる我々は誰を想うのか。
巨大な鱒から後光の射したような姿のモチーフは我々の頭には存在しない。
我々は鱒を神とするのではなく
やはり自分のここぞと思った釣り場を想うのではないか?
確かに鱒のいる気配、あるいは過去に成功した経験のある場所、
時間を気にせず居着ける心地よい雰囲気、
これこそが我々を惹き付ける要因ではないか。
そして
この気配こそ実は
我々のみならず、鱒族をも魅了しているのではないか。
空気の中で暮らすものと、水の中で暮らすもの。
ギャップがあれど、それらを近づかしめうる場所。
その場こそ我々の聖地となり、かつ鱒族の聖地ともなりうるのである。

宗教的神は具象化されているものもある。
しかし、別に、信仰心は山を神と見立て、太陽を神と見立てうる。
ときに我々が、川、湖の一部を聖地と見立てたとて
誰にも疑問をもたせうることではない。
もし
鱒族に信仰心というものがあれば、
彼らもおそらく、我々と同じ場所を選び、馳せ参じるだろう。
生きる為に最も都合のよい場所、
なにより外聞にある釣果がそれを物語る。
釣り人の神とは、具象ではなく、自然のふとした、
自分で発見した一部たる場所ではないか。

我々は生きる為に必要不可欠な部分以下の意識で釣りを行う。
当然そこには職業漁師には及ばずとも
自然への畏怖の念が生じるべきである。
誰が神に対価を求めたか?

我々は、日々聖地を探し、運、経験によって聖地に出会う。
腕を磨き、結果を自分以外のせいにせず、
反省を続け、結果に満足する。
己と鱒とが同じ理想をもっているとするならば
自然のなすがままを経験し、特徴を捉え、
鱒族同様、今想うことを具現化し、
聖地を求めるだけである。

よって
鱒族と我々は同類であり、
自然のなかに求める一握りの感覚が同類の種族であり
この関係をよろこび
双方、かの地を想うのである。
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by rakkyouh | 2013-01-10 00:16


気品溢れる鱒族を求めて。自己満足型随筆集
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