楽響



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秋の釣り。 

薄紅葉の峠道を走る。
昼過ぎの雨。
なんとなく良い雰囲気が漂う。

この感覚は、通い始めた頃は思い込みだったが、
最近はなんとなく感じるものである。
今日の釣りは、朝一がよかったのだが寝坊したため、
おやつ時間に到着。晴れてたらこなかっただろう。

いざ釣り場に車を停めれば、
雰囲気ムンムン、準備に焦る、色々なモノが引っかかる。

さて、
この時期の旬の魚がいる。
狙いは、その魚の周りをうろついていそうな巨大虹鱒だ。
これは完全にイメージで、いるのかいないのかもわからない。
釣れたことがないので、いないのかもしれない。
小さい鱒はいっぱい釣れるので、それ自体が餌になりそうだし、
また、それ用の餌のおこぼれを狙っているかもしれない。
狙いは
沖のボトムだ、
鮭やレイクを狙うときと同じ仕様である。
一投目からアタる。
フォール中だ。
手前で外れる。
小さな魚だったのだろう。
またアタる。
この釣りは、
5回投げれば、3回はアタる。
ただし、小さな鱒が多いので、立派なアタリを出すのだが、
のらなかったり、途中で外れる。
色々な角度を試し、
色々なアタリが出るが、
かかるのはやっぱし小物。
これはこれで楽しいのだが、
沖底から引きずり出してくるので、
しかも途中いい引きをするので、
岸にくるとかなり弱ってしまう。
これではただの殺生のような気もしてくる。
次は、この小物が付いて来れないような動きで試してみよう。
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んー、巨大虹鱒よ、
いずこか。
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by rakkyouh | 2012-10-28 20:54

感覚法2 

さて、我々は人間であると確信しているが、
中身も人間なのかどうかが疑われる。
例えば、他人の顔を見て、あの人は魚っぽいだとか、犬っぽいだとか、
他の生物に例えられることが多い。
この例えは、
その人間と、似ていると言われるその動物の間に何かの
共通性があると言う意味なのだろうか?
あるいは、
単なる顔のバランスによる共通した統計的比率の結果なのか?
見た目で言えばどちらも肯定出来るが、
果たして中身の共通性はどうなのだろう?

攻撃的な性格が顔に表れ、優しい性格が顔に表れ、これは
生まれ持ったDNAの操作から現れるバランスか、あるいは、
生まれ持った性格から現れるバランスか。

一旦人を離れ、同一種の動物の表情を注意深く見比べる。
例えばライオンをよく比較してみれば、
ライオンキングのシンバのようなものもあれば、悪役のライオンのような悪そうなものもある。

これは、人と同様、ライオンの個体の性格、例えば攻撃性、温和性が表情に出ているとすれば、
外観こそ違えど、中身は人と共通の性格性が存在し、
たまたま種が違ったと考えることもできる。

これによると、人に生まれついたもの、ライオンに生まれついたもの、
その種になったのは結果的なことであり、
もともとの生命の起源としての”何か”(ウイルスのようでもあり、スピリチュアルなようでもある)が、受胎した瞬間の細胞に取り付き、
運転し始めたとも考えられる。

その”何”かは、種である必要がないため、
空中で浮かんでいるときに、取り付く先を、じっと待っている。
偶然、あるいは、意図的に受精卵を手に入れれば、
その”何か”は、その生命の統治者となり、
自分を現すように、
DNAの成長に合わせて変形しながらも、
結果的に表情に自分の性格を現していく。

この”何か”がいつ出来たのか、
どこからきたのか、
わかりやすく言えば、己はどこから、いつ、現れたのか、
これはここではわからない、
ここでは性格と種の例え話の関連をみているので、置いておく。

狡猾な人間と、狡猾な狐、あるいは狡猾な海のサワラ、川のパイク。

一度ここで、
時間を遡る。

進化論では海から陸への、気の遠くなるような時間の変遷のなかでの進化が信じられている。
しかし、この”何か”が初めから存在したのであれば、
”何か”の性格によって、意図的に強くなろうとしたもの(虎やライオン)、
意図的に小さくなろうとしたもの(微生物等)や、意図的に平和をもとめようとしたもの(植物)、
等々、何かしら意図的に説明することも出来る。
ただ、”何か”の起源に余りに説明しがたい部分があるので、
例えば、二つが初めに生まれた(一つの神の下の男女的な)なら、一つは統治し、一つは服従する、
これらが増え始めたら、中間的なものが派生的に存在し始め、今の多様な種にいたると
説明出来る、これこそ、”何か”の起源であり、
”何か”の多様性であると言うことも出来る。
矮小な例えをすれば、会社の人間相関図をみているようなものか。
最初の二つが一つを生み、感覚は3つになった。
そして、その感覚は、初めは一つの家系から増え始め、徐々に増えていく。
この時点では人間ではなく、おそらく海の中のバクテリアのようなものである。
このとき、死んで身体を失った”何か”は、再びどこかの生命の宿る瞬間を
見つけ出し、乗りいれる。これは、無意識だ。ただし、動物が餌をもとめるように、
”何か”に目的は存在する。
こうしていくうちに、”何か”は、自分の成すべき存在意義(何番目の服従、あるいは何番目の統治)として、新しい感覚をもち増え始める。
これが、いわば、勇猛、狡猾、親切、等の言葉として表現される派生なのだ。

進化はその”何か”が置かれた環境に寄って変化する。
統治者はより強さを求め、群れる者はより仲間を求め、離れる者はより孤独を求める。

この”何か”がふと、
人間の受胎に相会わせ、人となり、何かを現す。
”何か”の指向性の多様性と、生物の多様性のブレンド、
木の気持ちを持った人間、虎の気持ちを持ったネズミ、
これこそが、進化であり、多様性の根源ではないか。

以上、妄想に拍車がかかり、歯止めがきかなくなった時点での、
しょうもないお話。
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by rakkyouh | 2012-10-24 00:47

感覚法

タイトルの通り、感覚について考える。

まず、釣りの時点において、我々は魚の気持ちになって考える。
ここで、何故に俺に魚が釣れないのか!などと
自分勝手な、全くの、身勝手な的外れの努力の結果に悩むのは、愚の骨頂、阿呆である。
何故に自分の技法に魚が食いつかないのかと自虐的に悩むのが正当である。
対象の客観的把握が大事なのだ。
主観的になっては、自分の目線でしか世界が見えず、発展性が阻まれる。

では、
会話のできない魚に対し、我々に許されるのは、イメージだけであるが、
魚が思い通りに釣れた場合、
そのイメージは理に適っていたと言うことが出来る。
よって、そのイメージは、この世に存在する何かしらの既成感覚と言うことが出来、
魚と我々を結ぶ、共通感覚を含んだ理であると言って間違いない。
これは、人間の言語のメタファーであると言って間違いない。
人間同士の会話も、もとを辿ればここなのだ。
本当に我々が必要なものにたいし、メタファーが言葉になった。
ただ、
その感覚が余りにもマニアックで、人間と人間の間で使うコミュニケーションよりも、
魚と人間との間で使える感覚であるなら、
言葉で表現するには、上手な例え話でしか成し得ないものとなる。


これは非常に感覚的な部分である、
当然、基本的な文法、作法、仕組みを学ぶことは大事であるが、
ある程度知ったあとに、
誰か先生によって解説された参考書そのものにのっとって扱うこと、あるいは、
単語の使い方を教えてもらい、あとは感覚によって自由に扱うこと、
どちらが応用が効くか、
これは当然、同じ人間同士、対話の対象は一つであるから、
言葉が通じない場合、
あくまで感性を表現したものの勝ちであり、
没個性的なマニュアル表現では、結局、話もありきたりで、
結果、釣り人であれば、魚も思うように釣れないのである。

社会化し過ぎた人間とは、
この感覚が鈍化しており、
会話において一切の感覚的抑揚がなく、
まるでこちらが小学生の算数に答えさせられているかの如く、マニュアル化されており、
退屈である。
たいして、
感覚の研ぎすまされた、鋭敏な神経によって成り立つ人物と会話する場合、
こちらも影響を受け、
これまで隠れていたシナプス運動が活性化され、
大げさに言えば、こちらも感覚的な生き物であったことを再認識するのである。

よって我々釣り人は、
退屈な社会化した愚鈍な感覚しかない世間から逃げ出し、
否、逃げるというとネガティブであるから、
本来動物としての、
本能的な対話(そこには食物連鎖の手法が多く含まれるが)を求め、
強い感覚的意志の活性化を求め、
結果、
感覚を確かめる、あるいは研ぎすませるために、釣りに出かけるのである。
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by rakkyouh | 2012-10-09 00:52


気品溢れる鱒族を求めて。自己満足型随筆集
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