楽響



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超私的論 「粋な釣りの構造」

世界には、イギリスのダンディズムなど、
洒脱でイケテて孤高な、とても魅力的な姿がある。
ここ我が国に目を移すと、「粋」がある。
今回、目指すべき鱒釣りのスタイルと、それとを合わせて考えてみる。

日本人であれば「粋」な大人になりたいと思う人も多いだろう。
ただし、関連するモチーフを準備しようと思う場合、大概にして古い。
粋とは、九鬼周造さんによると、「垢抜けて張りのある色っぽさ」などと、
オモシロおかしく一冊の本にまとめられているものもある。
また、風流、武士は喰わねど高楊枝、などなど、色々な言葉がある。
が、どうも古い。
昨今の西洋化してきた日本には、着物や浴衣や夏祭りなどの伝統手法以外に、
もはや「粋」を表現できる場所はないのだろうか?

鱒釣りについてみてみよう。
日本では身分に捉われない釣りであるのに対し、
西洋では貴族的なイメージがある。

まず貴族的なイメージを噛み砕いてみる。
貴族といえば、裕福、排他的な感覚の持ち主、などなど、
貴族は貴いものであるがゆえに、優れていることが前提だ。
庶民と同じでは、庶民を見てフンと鼻で笑うことができない。
ゆえに、生まれた時から努力して勉強して、知識と叡智を手に入れるのである。
このすこぶる金のかかる教育は一般人には出来ないから、貴族は貴く育つ。
みんな頑張ったおかげで庶民より優れているのだ。
庶民から見れば排他的で鼻につくようではあるが、
排他的なもの達同士では、次なる叡智を求めて会話しているのである。
(例えば、人類みな平等精神などがあるが、この場合ある点において、
 優れた叡智は愚鈍なものに意味不明だと不当な扱いを受け、消される可能性が増える)

よって、貴族が行う釣りについても同じく、
庶民に対して優れていなければならない。
釣りを行うスタイルも、釣りの対象とする相手の姿カタチも
かっこよくて美しく、エクスクルーシブでなければならない。

その結果発展してきたのがフライフィッシングであるから、
一流の人間が対象とした鱒は、彼らのお眼鏡にかなった相手である。

世界中の鱒釣りを選択した人間は、
ここで言う西洋の貴族と共通する美的感覚があると言える。


次にスタイルである。

西洋の排他的な道具類達に関しては
まず絶対的に機能的であり、かつ、シンプルで美しく、だがそれがゆえに高価なものである。
これは哲学の結果であり、突き詰められた思想が形状に反映されているのだ。
いかに優れた機能とスタイルが両立されているか、ここが大事であり、値段を気にすることはない。
一方で日本の道具類達はどうか?
西洋と同じ世界観はフナやタナゴの世界においては間違いなく存在する。
ただし、鱒釣りではどうか?
想像力を働かせても、
まずフライフィッシングに関しては、西洋を目標としているために粋の存在領域はない。
この話を進めれば、粋とはテンカラになるだろう。
ではルアーフィッシングではどうか?
それぞれの道具において、竿やルアー、ランディングネットなど、
ハンドメイドの素晴らしいものは確実に存在する。
ただし、これらの道具達を組み合わせた状態、釣りをしている姿そのものが、
粋に到達するかどうかと言うと、それは難しそうである。

よって、日本の「粋」に関し、
鱒釣りを行うことは、
世界共通の優れた美的感覚を持っていると言えるが、
しかし、
スタイルに関しては、
未だこれと言った確立がなされていない、
と言うことができる。

美しい鱒達を想い、かつ、自分のスタイルを確立していくこと。
これが今の日本に求められていることだろう。


鱒を釣ること、そして、より大きなサイズのものを釣ること、
無論、その意志は日々の釣りの原動力である。
ただし、この先の鱒釣りの発展においては、
例えば「粋」のようなモチーフを通じて、
今の鱒釣り師が、後継に憧れられる存在となる必要がある。


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by rakkyouh | 2009-02-26 23:45

Canadian blues

言い伝えによると、
今からおよそ40年前、我々の祖先はここ中禅寺湖に移住したそうな。

今の我々にとって、言うまでもなくここは故郷であり、広大であり、何不自由ない環境である。
食料豊富、快適な温度、他の民族も豊富だが、今となっては争いもなく平穏だ。

さて、我々には、
ここではない、祖先の生誕の地から語り継がれた歌がある。
雄大な大地と澄んだ水を詠んだものである。

湖流にのって、それはもうユラユラと移動する折にナニガシかが歌い始め、
気がつけばいつしか大きくゆったりとした合唱となり、
他の民族など、言葉はわからぬも、静かに目を閉じ、満足そうに聞いているものである。

いつしか回遊を止めた老翁なども、いつもの大岩の陰でひっそりと、枯れた声で独唱する。
ふと、静かに響く彼の声を聞いた時などは、祖先の生誕の地を知らずとも、
歌から来る想像を目に浮かべ、郷愁にかられた気持ちになる。

何故、祖先にこのような移住がなされたのかは知らぬが、
ここで暮らす今の私が、祖先が強固に生き抜いてきた証である。

この先何があろうとも、私には、新たに生まれ出会う者全てに伝える義務がある、
Canadian bluesを。
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by rakkyouh | 2009-02-24 23:14

対他的釣果結果と自己満足的ロマン追求結果の隔壁。

とある友人との会話。
友 「湖は釣れた?」
私 「それが、5匹。しかも40〜50センチクラス!」
友 「おお、珍しい!いい釣りだったね。」
己の名誉と自尊と光悦、相手からの羨望と嫉妬。

一方、私のなかの脳内シナプス電流カンバセーション。
+ 「結局、釣れると楽しいな」
ー 「甘いな、魚の引きを味わうならどこでもいいだろう?
   放流魚が溜っていただけだ。あそこは管理釣り場ではないぞ、求め続けている
   自然の育んだ理想の相手は一つとして上がらなかっただろう?」
+ 「魚の引きを味わうのも楽しみの一つだ。」
ー 「結局、楽しみがあってもそれくらいだと行く前から仮定していたのだろう?」
+ 「そうではないと信じ作戦を練った。
   しかし状況により作戦を変え、盛り上がる気分も必要だ。」
ー 「釣れた数匹の魚から判断するなり、リールを巻きながら ”魚よ、もうかかるな” と
   思ったのは否定できないだろう。」 
+ 「・・・」
ー 「それは釣れた相手の力量を知った後の自責の念、
   理想とは程遠かった。何故手法を作戦通りに戻し、己を通さなかった?」
+ 「結局、苦を友に1を得るよりは、楽を友に10を得る。
   後者を楽しむ湖であると判断した。」
ー 「苦の1には楽を1000ほど得ても及ぶまい。
   結局、意志の弱さからくる言い訳だ。」
+ 「共に釣行した仲間と喜びを分かち合うことは出来た。」

モヤモヤモヤモヤモヤモヤ・・・・。



この”対人的自分”と”自分の頭の中”のギャップ・・。

おそらくいるはずであろう、ネイティブ化した巨大魚へのロマン。
ワクワクと前夜までに練った作戦。
しかし、
釣れて楽しい穴場へと傾倒、目がくらみ行動した自分。
結局、巨大魚を想定/用意したルアーは使わなかった。

鍛え直そう、
これからの時期、モヤモヤのない厳しい修行の喜びが待っている。

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by rakkyouh | 2009-02-23 00:43

鏡面

夜明けの朝靄の立つ幽玄な湖面に、
この瞬間こそたまらぬひと時と1人つぶやき、
蒼々とする水面とモヤリ明るい空の色彩と、
悶々とする濃い緑の香りに喜び、
タバコの旨味を緑のそれとブレンドし、
吐く煙で眼前の靄の白を更に濃密にし、
息のリズムを朝鳥の唄に合わせ、
味覚、視覚、聴覚を用いて、
己の存在を強調するでなく、周囲と共鳴しながら、竿を振る。

これらが揃い、芯から清められて行くような感覚が好きだ。


はてさて、そこでは凪いだ静寂の湖面がまるで鏡面のように佇む。

竿を振るのであれば、その鏡面の奥底には、竿を曲げるであろう相手がいる。

その相手の持つ、静寂、孤高、気品、云々、

もしや、

ここに来るのは、鏡面の中の相手に、理想の己を投じ、
自己を見つめ直し、自己を高める為の行為ではあるまいか?

とすれば、鱒族を己の理想と捉え、
神化しているのではあるまいか?

湖中の鱒族とは、実は理想の自分か..。

曰く、釣りは所謂釣りでなくなり、自己を確認し、清め、反省し、高める行為となる。

例えば、社寺に詣で、賽銭を投じ、己の明るい未来の約束を念じる、

何らこの行為と、
鱒族を相手にした釣りとが変わるであろうか? 

従って、私に釣果を訪ねる行為とは、
誰彼に初詣の願い事の成果を訪ねる行為くらい
野暮な質問となるのである。 笑
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by rakkyouh | 2009-02-14 01:05


気品溢れる鱒族を求めて。自己満足型随筆集
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